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殺生石山見送り幕
昭和59年(1984)新調

大津出身の日本画家、小倉遊亀画伯の「霄れゆく」を題材に見送り幕としたもの

殺生石山の由来

殺生石山の由来成立年は未詳だが1660年ごろと言われている。玄翁という僧が、下野の那須野を通りかかると、飛ぶ鳥を落す巨石があった。そこへ女が現れ、石の由来を語る。鳥羽法皇の頃、宮中に学芸優れた玉藻前という美女がいた。実はこの玉藻前は、金毛九尾の狐の化身で、天竺・唐において王朝に危害を加えてきた妖狐だった。日本に来て帝の命を縮め、国を滅ぼそうとしたが、陰陽師阿部泰親に見破られ、那須野に逃げたが、ここで退治され石となった。女は自分こそ石魂なのだと語り、夜になったら真実の姿を見せる。
玄翁が、石を供養していると石が2つに割れ、妖狐が姿を表すが、玄翁の法力によって成仏する。という話で、からくりはそれを表現している。

                  殺生石山(玄翁山)の所望


栃木県那須、殺生石由来の地に訪れました。

昔、白面金毛九尾の狐という顔が白く、金色の毛を持ち、9本もの尾を持つ狐がいました。
この9尾の狐は、不思議な術を身につけた大変悪い狐で、ありとあらゆる悪事を行い、アジア大陸で暴れ回り悪行の限りを尽くしたのち、日本にやってきました9尾の狐は玉藻の前という美しい女官に化け鳥羽院に仕えておりましたが、占師の阿部泰成に正体を見破られ那須野が原に逃げてきました。しかし、ここでも悪いことばかりしており人々は打つ手もなく困り果てておりました。
そこで朝廷は三浦介を将軍とした8万余の軍勢を遣わし9尾狐を追いつめ、神から授かった鏑矢で射ると狐はたちまち大きな石となりました。しかし、石になった狐は近づく人々や獣はいうにおよばず空飛ぶ鳥までにも猛毒をふるっておりました。これを聞いた泉渓寺の源翁和尚が石に向かって大乗経をあげ続けると、毒石は3つに割れて飛び散り1つはここに残りました。人々はこの毒石を恐れ、殺生石と名付けたということです。

史跡の辺りは、硫黄の香りが漂う。


大津祭り囃子の

稽古の様子

稽古は毎年、9月16日から

10日間、午後7:00~9:00

まで行っています。

囃子方は総勢20名余

 

柳町「殺生石山」

毎年、10月の第1
日曜日に行われる
山建ての様子。

釘類は一切使わず
縄だけで組上げて
行きます。

柳町では、青年会
が山建てを応援し
ています。